見た目の話

先日、リハビリ科受診のために大病院へ行った。

大病院だからなのか、毎度受診時間が遅れるのがデフォルト。まぁ今日も待つか、と思って待合室に向かった。

すると、一人の女性が電話で話していた。足を組み、前かがみになりながら座っている。服装があまり大病院で遭遇しない感じで、私は驚いた。

スウェットのような素材で、韓国のアイドル練習生が着ているようなラフさだった。上下黒で、上はスポブラのようなタイトさ。しっかりおへそ出しで、下はゆるやかな形のボトムス。

髪型はショートカットのボブ。メガネを掛けて、メイクもばっちり。下まつ毛が綺麗に整っていた。ピアスも少しあったかも。

原宿か渋谷なら馴染めそうな風体なのだけど、いかんせんこちら大病院のリハビリ科待合室。明らかに浮いていた。

 

リハビリ科の待合室は色んな人が使える休憩スペースの直ぐ側にある。休憩スペースはいつも混雑していて、その雑然とした感じの横にリハビリ科待合室があるので、ちょっとざわざわしている。

 

私は、電話をしている女性は休憩スペース代わりに使ってるんじゃないかと思った。ちょうどお昼時で空いてる席はない。相変わらず老若男女の声が賑やかに聞こえてくる。

電話をするために、この人はリハビリ科の空いてる席を借りてるんだろう。

 

でも、聞こえてしまう電話の内容から、すぐにそんなことはないことを理解した。

癇癪、車から出てこない、リハビリ科の予約状況、今日の対応等など。

つまり、おそらくは今日お子さんのリハビリ科受診だったが癇癪を起こして受けられない、といった話だった。

 

申し訳ないな、と思った。聞こえてくるとはいえ会話を盗み聞きしたことも、なにより、リハビリ科受診に関する人ではないと見た目で決めつけたことを。

数分もすると彼女はため息を付いて電話を切り、颯爽と待合室を抜けていった。

 

障がい者の親は、どういうイメージだろうか。

私は、「自分を優先してない人」だと思っていたし、今も思っている。

今回のような「見た目の話」で言えば、例えば

・服装は動きやすさ重視

・メイクは薄め

・髪はセットしない、黒色

・太ってるか痩せているかの極端さ

つまり、自分の見た目にあまりコストを掛けていない人。

だってそうじゃん?

毎日子どもの介護や世話で大変なんだもん。

自分のことは後回しでしょ。

 

という、偏見が今回露呈したわけだ。

あんなに自分らしい服装をしている人が障がい者の親なわけがない。

あんなにスマートな人が特性持ちの親なわけがない。

あんな人が、家族のことで苦労してるわけがない。

そんな最低な気持ちが私の中にあった。

だから、私はあの人を「自分たちの世界の外の人」だと決めつけた。

 

でもあの人は違った。自分にもちゃんとコストをかけて、自分らしさを大切にしながら、子どもとその周りと関わっていた。

そうか、それは自分次第なんだろう、と思った。

自分を優先するかどうか、それは自分がどうありたいかであって、周りは関係ない。

私はいつしか、子どもに徹する親の像を勝手に作り出しては、「自分は自分を大切にしてはいけない」という呪いを自分にかけて苦しんでいたのかもしれない。

正直、まだその呪いは心にあるけど、でも、彼女の病院での存在感はまだハッキリと覚えているし、羨ましいと思った。

 

 

 

 

 

懸命に泣くわが子と愚かな私について

先ほど、娘が就寝中に吐いた。横向きで寝ていたところ、急に仰向けになってバタバタとして泣き、ビシャリと枕元を汚した。私は一部始終を見守りモニターで見て、「吐いた!」と叫びながら急いで寝室に向かった。夫も次いで向かった。

 

 

階段を駆け上がりドアを開けると、今までにない泣き方をしている娘が一人寝室にいた。急ぎ電気をつけて、娘を抱き上げる。髪は吐瀉物で汚れていた。

生後11ヶ月にして私達親の知らない泣き方をしていたので、とにかく楽にしてあげたく、縦抱っこしながら服を脱がしてあげた。苦しそうに泣いていた。

一定のリズムを繰り返し泣く娘は、10分もすると落ち着いてきたのか泣きが収まってきた。

少し笑顔も見せてくれたので、私はスマホで「生後11ヶ月 嘔吐」と検索していた手を止めて、夫と二人で深く息をついた。

 

 

その少し前、私はまた「検索魔」と化していた。自傷行為のように、娘に関することと障害名を検索する。全体的に発達が遅れているから、もうやっぱりこの子には何かあるんだろうなぁと思ってしまった。次第にその思いが風船のようにパツンパツンに膨らんで、どうしようもなくスマホを手に取った次第。

なぜその風船を割ろうとせず、萎ませようとせず、更に膨らませるような行為をしてしまうのかは謎である。

 

 

それからの、娘の嘔吐。娘は懸命に泣いて、私たちに苦しみを教えてくれた。目を真っ赤に腫らして泣く娘は、温かく、脆くて、助けなければと思わせてくれた。愛おしかった。

そんな存在に対し、私がしていることはやっぱりとても愚かで、浅ましいと思う。

この子は圧倒的に自分の人生を生きようとしているのに、私はそれを否定するような感情を持って接している。何も決まっていない真っ白な彼女の人生を、早々に黒く塗りつぶそうとしているのだ。こんなにひどい親が居ていいのか?と自問自答してしまう。

「そんなことないよ」なんて言われたくて今書いているわけではない。書かずにはいられない。そうしないと私の愚かさを正常に受け止められない。少しでも冷静になりたいから、こうやって指を素早く動かし、スマホの画面に文字を連ねていくのだ。

 

結局のところ、夫の腕でまた安らかに眠りについてる娘を見つめながら、やはり私は自分のことしか考えられていないことが、何よりの私の愚かさである。

娘のために生きたい。いや、正しくは、娘の人生を豊かにすることを考えたい。それなのに、私はまだ、自分の人生のことを考えている。

 

 

 

 

 

リハビリ科メモ

【評価】

・段差も乗り越えられるようになったり、四つん這い姿勢も増えたりして腕の力が強くなってきた

・手がだいぶ開くようになってきた

 

【今後】

・全体的にお腹の力が弱いので、それを強化したい

・旋回での脇腹の屈伸

・四つん這い姿勢で膝に支点を置き筋トレ

・お座りから横にずりばい姿勢を取らせる筋トレ

 

【その他】

・長時間のおすわりは背中の力を使いすぎるので駄目

・まずは粗大運動。そこからおもちゃの使い方もアップデートされていくであろう

・手の平で体を支える経験を積むことで、手が発達していく

・低緊張と言える

 

 

子供を占ってもらうのはいいぞ、という話

占いが好きだ。もともとスピリチュアル系の話は興味をそそられる。もちろん人生の根幹に影響するほど傾倒していないけど、そういう世界があったら面白いね、くらいには思っている。

実際、昔地元で本当に見えてしまってるであろう人と話したことがあり(私の家族のことについて、ひとつも情報を渡していないのに、その人は詳細にわかっていた)、そこから更に「まぁそういう世界もあるんだろう」と思った。

 

だから占いもその延長線でエンタメとして好きで、ちょこちょこお金を払ってみてもらうことがある。

 

最近は娘のことを占ってもらう。

これは良いな、と思う。なぜなら、娘を娘として知ることが出来るからだ。

なにを当たり前のことをと思うけれど、発達不安を抱えていると、気づけば目の前のことしか見なくなってしまうのだ。娘の発達のことばかり考えてしまい、将来なんて何一つ考えられなくなってしまう(というか大人になる姿を想像できない)。

まだ0歳児で余計に性格も資質もわからないから、兎に角目の前の出来ること、出来ないことでしか私は子供を見られなくなってしまうことが多い。

 

でも占いをすると、娘の未来に明確な輪郭が表れる。できるできないじゃなくって、娘がどういう個性を持っているかを知ることが出来る(それが合っているのかは置いておく)

 

今のところ共通して言われてるのが

・勝ち気

な性格であるということ笑

その他色々言われているけど、言われるたびに嬉しくなる。将来はそんな子になるのか。と。

なお占い師全員から、なにか未来に不穏なことがあるとは言われたことはない。不穏とは何かはわからないが、私が不安に思うことは特に言われていない。

一番信用している、おそらくマジで見えちゃってるであろう人(前述の人)からも特に言われなかったので、それを救いの一つにしているところがある。

 

ぜひ子供の発達に不安を抱える人こそ、こういうことにお金を払うのもおすすめしたい。

心が弱っていることが多いから、どうかうまい話には乗らないでほしいけれど。あくまでお遊びの範疇でおすすめ。

 

なお経験上、本物の人はネットの検索結果には一切出てこない笑

本当に当たる人に出会いたければ、地元で噂されてる人にみてもらうのが一番。

 

 

 

 

 

母の勘は当たるという話

しばしば育児界隈で言われる

・母(親)の勘は当たる

というもの。

病気の兆候を察するときなどに使われることが多いだろうか。

 

これに苦しめられている自分がいる。

生後三ヶ月あたりから「おや?」と思うことが増えていき、どんどん娘への発達不安が募っていた。

どんなに周りに「普通の子」と言われても、ずっと拭えない。

それは上記の

・母の勘は当たる

という迷信が頭から離れないから。

 

分解すればこれは、毎日子供とともに生活している母は子どもの普段との違いを把握しやすいということで、また観察頻度が高いから〃、ということだとは思うが、そう思っても、

・勘

というスピリチュアルなものがどうしても優先されるような気がしてしまう。

 

こう書いていて、矛盾があることを自分で理解している。

・勘とは、第六感的なもの

であり、子供を観察してる中の違和感を並べて考えるのはとても理性的な行動であるから、勘ではない。もはや仮説だ。

 

私は、実は初めてNICUで娘の顔を見たとき

「あ、この顔は大丈夫だな」

と思った。そのときは胎児発育不全、動脈管開存症、脳室内出血、と生まれて初めて知る娘の状況に頭が追いつかなかったのに。

むしろすくすく成長している今より絶望的であったのに。

でも私は「大丈夫」と思った。

それこそまさに「勘」であり、

・母の勘は当たる

を信じるのであれば、大丈夫な気持ちを大切にするのが正解だ。

 

結局私は、自己防衛のために不安な要素を常に探しているにすぎないのだと思う。

もう出産のときのような突然の辛い出来事に怯えたくないから、常にリスクを想定しておきたい。

この自己防衛から解き放たれたい。

どんな娘でも受け入れられる存在でありたい。

 

と書いたものの、本音を言えば、上記の「大丈夫」な勘が、当っていてほしい。